フリーペーパーCheersブログ記事(2016年9月6日)
毎月第一水曜12時から、シドニー総領事館の入っているビルの前で、反日グループがデモを行っている。
事務局も毎月このデモをチェックしにCityに出かける。反日グループのメンバーは20人前後、20代の若者が中心である。彼らは最近豪州に韓国からやってきたワーホリや学生がほとんどで、10年以上豪州に住んでいる人はほとんどいない。中心は韓国の挺対協(挺身隊協議会)のユン・ミヒャン代表からシドニーで反日運動をするよう申し付けられた男女である。デモ参加者の中には日本人を顧客とするビザ・コンサルタントなどもおり、この韓国人は日本人顧客をだました前歴を持っている。彼らの主張は慰安婦に関する日韓合意反対、竹島問題について日本の姿勢を糾弾、慰安婦像設置推進などである。挺対協は北朝鮮との関係が明らかになっている左翼民間団体であり、最近の活動は反政府の色彩が強くなっている。下の写真は8月6日の慰安婦像のお披露目セレモニーに出席した来賓たちであるが、アッシュフィールドのUniting Churchのビル牧師の後ろに挺対協のユン代表の姿が見える。彼女の一族および挺対協の幹部たちはスパイ罪で韓国政府に逮捕されており、韓国政府の監視対象組織となっている。
ユン・ミヒャン挺対協代表
水曜デモでAJCNの事務局長が反日グループのメンバーたちと意見を交わした時、彼らが韓国の歴史について全く誤った洗脳教育により、事実とほど遠い歴史認識を持っていることが明らかになった。彼らの歴史認識がどのようなものかについては触れないが、日本人にとっても最も暗黒の時代であると思われる韓国の日韓併合時代とはどのような時代だったのか、エピソードを例にご紹介する。
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日韓併合とは大韓帝国政府と大日本帝国が1910年8月29日に条約を結んで日本国として一体となったことを言う。英語ではAnnexation。インドを植民地化したイギリスの政策はColonisationであり、EnglandとIrelandの関係がAnnexationである。
当時、大韓帝国はロシアの南下政策により脅威を受け、日本の庇護を受けるため大韓帝国の貴族たちは併合を望んだ。韓国人の中にはこの併合時代は日本による侵略の時代であり、たくさんの韓国人が殺されたと信じている者が多い。シドニーの挺対協の若者たちの中にもそう言った者もいたが。これは韓国で今も行われている反日教育によるものである。
では実際はどうであったか。
併合時代の朝鮮人たちは日本軍へ志願殺到
朝日新聞が報道した『日韓併合の真実』 によれば、日本軍への志願兵制度導入前から朝鮮人の志願が殺到した。
朝鮮人に対する徴兵制について、戦後の朝日新聞は、嫌がる朝鮮人を無理やり徴兵したように報じている。だが、当時の「朝日新聞・朝鮮版」を読むと、その実態はかなり異なる。徴兵制導入以前から多数の朝鮮人が兵士に志願するという下地があり、日本人と同様の「愛国心」が発露していた様子が窺える。
朝鮮半島で「志願兵制度」が導入されたのは1938年のことで、「徴兵制」が実施されたのは1944年からである。志願兵制度が導入されるまで、朝鮮人が旧日本軍に入隊する術は、陸軍幼年学校か陸軍士官学校に進むしかなかった。
日支事変の遠因となった、1937年7月29日の「通州事件」(北京近くの通州で日本人・朝鮮人居留民二百数十名が中国兵に惨殺された)により、朝鮮人の中国への怒りが頂点に達していたこともあり、朝鮮半島では志願兵制度がまだなかったにもかかわらず、志願が殺到していた。
朝鮮人志願兵制度は、日本在住の朝鮮人の間でも大きな反響があったようだ。
『志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先にと志願』
当初7倍だった倍率は、5年後には50倍になった
朝鮮人志願兵制度をまちわびる熱気に押されるように、1938年2月23日、志願兵令が正式に公布された。志願兵募集初年度となった1938年度は、志願者2946名中、406名が合格した。以後も志願者数は右肩上がりで増え続けた。
1938年度 志願者 2946名 406名合格
1939年度 志願者 1万2348名 613名合格
1940年度 志願者 8万4443名 3060名合格
1941年度 志願者 14万4743名 3208名合格
1942年度 志願者 25万4273名 4077名合格
1943年度 志願者 30万3394名 6300名合格
もちろん、当時の報道には戦意発揚の意図はあっただろう。また、職を求めた朝鮮人たちが軍に志願した面も考えられる。しかし、この志願兵急増の背景には彼らなりの「愛国心」があったことを窺わせる記事がある。戦中の日本在住の朝鮮人についての記事だ。
『在阪朝鮮人一丸 暴英膺懲(ぼうえいようちょう)に蹶起(けっき) 十六日大会を開催』
「東亜の敵老獪イギリスを討てと在阪朝鮮人が一丸となって十六日午後七時から大阪天王寺公園運動場で暴英排撃大会を開催することになつた、(略)参加大衆五万余といふ素晴らしい人員である(大阪)」
志願者が増え続けた結果、当初7倍程度だった倍率は1943年度には約50倍となり、不合格を悲観して自殺するものまで現れた。
『●純情の愛国青年 志願兵に不合格を悲しみ 失望の余り自決』
「(略)李昌萬君(十八年)は去る六日午後十時ごろ自宅から約十町離れた林野内で死を遂げた、(略)『僕が念願していた志願兵は遂に駄目になつた この苦しみを免れるには死んだほうがましだ』と漏らしていたさうで今日まで宮城遥拝、里洞祠参拝を怠らなかつたといふ」
『志願兵に不合格を悲観して自殺』(『大阪朝日・南鮮版』1940年7月13日付
一方で何とか合格しようとして血書を持参する志願者まで現れた。
『鮮血「皇民の誓ひ」 一家を代表して志願』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月9日付
『また血書の志願 爆発点の慶南志願兵熱』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月8日付
徴兵制実施にともない皇居前で万歳奉唱
このように激増する志願者数と歩調を合わせるように、1942年、「徴兵制」の実施が発表された。
日本でも朝鮮半島出身者が徴兵制施行に対する感謝の集いを行ない、皇居二重橋前で万歳奉唱をしている。
実際に朝鮮人に徴兵令が適用されたのは、1944年9月からで、徴兵検査を済ませて訓練所に入所したのは、1945年1月~7月の半年間だった。そして7月から朝鮮半島や日本国内の「防衛部隊」へ配属されたが、徴兵制度で入隊した朝鮮人のほとんどは、実戦経験することなく8月15日の終戦を迎えたのだった。
しかし戦後の朝日新聞の論調によれば、戦地へ送られなかった事実は「巧妙な強制連行」ということになる。
『朝鮮人徴兵し、食糧生産 巧妙な強制連行 旧陸軍電報発見』
「【大阪】(略)塚崎さんは『両部隊は本土決戦に備え、兵士の食糧などをまかなうために開墾や耕作をさせた。軍のため労働力を集めた巧妙な強制連行だ』と分析する」(『朝日新聞』夕刊2003年3月15日付)
戦後の朝日新聞が日本の朝鮮半島を悪魔の所業のように演出しても、当時の朝鮮半島の「空気」「温度」はそれとはまったく異なることを「朝日新聞・朝鮮版」は訴えかけている。
ひとつ留意すべきことがある。それは、韓国の併合が、朝鮮総督府が米国に移管された1945年9月9日まで35年間続いたということである。つまり、8月15日以降も朝鮮総督府には日の丸が揚がり、日韓併合は続いていた、ということだ。日本が戦争に負けて終戦となっても、朝鮮の統治は自動的には終わらなかった。朝鮮独立軍が日本軍を追い出して独立した、というのは韓国人が作り上げた歴史ファンタジーである。同時に、日本統治下で韓国人の虐殺などは発生せず、経済は成長し、朝鮮人の寿命は延びた。だから、当時を知る高齢層ほど反日感情が薄いのである。若年層ほど完全に捏造された歴史を信じ込まされている。2013年5月には、ソウルの中心部にある市民公園で、「日本が韓国を併合したことは悪いことではなかった」と述べた95歳の老人が、その言葉に激昂した38歳の男に殴り殺されるという事件が起きた。その男は、老人の杖を奪い取り、杖が折れるまで老人を殴り続けた。現代韓国人の心の闇を象徴する事件であった。