豪州のアンザック・デーに想う。日本よ健全な愛国心を取り戻せ!

アンザック・デーを利用した中国のプロパガンダについて警鐘を鳴らし、対策を提案した事務局長のアゴラへの投稿記事です。地味な記事ながら「いいね」は250を越えました。
http://agora-web.jp/archives/2032513.html


豪州のアンザック・デーに想う。日本よ健全な愛国心を取り戻せ!

AJCN事務局長 江川純世

今年の4月25日のアンザック・デー、オーストラリア各市は晴れであった。大勢の市民が花輪の献花、パレード、慰霊セレモニーなどのイベントに参加した。
退役軍人のパレードをはじめとする式典が行われ、テレビ中継もされるオーストラリア最大のメモリアル・デーである。参加者、参観者は各市で万を数える。ANZACは、Australia and New Zealand Army Corps.(豪州NZ連合軍)の略称で、毎年4月25日、1914年に始まった第一次世界大戦における、トルコのガリポリの戦いで勇敢に戦ったオーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)の兵士たちを追悼する日である。
またこの日はイギリスの植民地という意識を払しょくし、独立した連合国の一員として初めて海外遠征したことを記憶し、国のアイデンティティを確立する重要な契機となった日でもある。(オーストラリア連邦成立から13年)
私の娘も小・中・高(ローカル校)で社会、歴史の時間に徹底的にこの記念日の意義について教えられた。図書館、本屋、郵便局、ニュース・エージェンシーにはアンザック関連の本があふれている。

キャンベラ豪州戦争記念碑での2018年Anzac Day(The Sydney Morning Herald)

アンザック・デーは第二次世界大戦後、ガリポリの戦いに参加した兵士だけでなく、第二次大戦や朝鮮戦争などオーストラリアとニュージーランドが関わった全ての戦没者慰霊のための記念日に変わってきている。第二次世界大戦中、日本軍によるオーストラリア本土(ダーウイン)爆撃を受け多数の戦死者を出した。捕虜の扱いについての怨み、戦争によって受けた悲しみを、敵国であった日本にぶつけてくる人もいて、ここに住む日系人にとって居心地の悪い一日であった。私も、住んでいた家のリビング・ルームの窓に卵を投げつけられたり、家の前に駐車していた車のテールランプが壊され、中に生卵を入れられ、それが放つ腐臭に閉口したこともあった。時が経過し、多くのオーストラリア人が日本を訪問し、日本への理解が進んでいる現在ではそんな目にあったという話はめったに聞かれなくなった。

アンザック・デーは元々、第一次世界大戦で豪州軍とニュージーランド軍連合部隊がボロ負けした戦いを記念する日である。イスタンブール占領作戦として始まったガリポリ上陸作戦は海軍の軍艦が次々と撃沈される中、各師団が上陸作戦を行った。ANZACの上陸作戦開始日は1915年4月25日、つまり今から103年前のことであった。この戦いで豪軍の戦死者は8,709人(連合軍総死者数33,512人)、多くの戦争未亡人を残し、結婚できない女性が急増した。 しかしこの戦いが負け戦であろうと恥と思う人はいない。人は自らの所属する地域、組織や国家のために戦うのだ。その為に命を落とした仲間のために100年以上経とうが一年に一回追悼しよう、そういう祝日なのだ。

翻って日本はどうであろうか。73年前に終結した第二次大戦で亡くなった212万人の日本軍人を祀った靖国神社を敗戦(終戦)記念日の8月15日に政府の要人、政治家たちは、英霊を侮辱して参拝にケチをつける隣国に忖度して慰霊に訪れない。こんな国は日本くらいのものだろう。日本もアンザックの精神に学んでほしい。
パースにおける2018年ANZAC Day慰霊セレモニーに集まった数千人の参加者。
(The Sydney Morning Herald)

しかし、アンザック・デーが終わった直後、オーストラリアのマルチカルチャラル・メディアのSBSがショッキングなニュースをレポートした。このニュースを読んで嫌な予感がしたのでご紹介する。
Chinese descendants of WWII veterans join Perth's Anzac Day march for the first time
https://www.sbs.com.au/news/chinese-descendants-of-wwii-veterans-join-perth-s-anzac-day-march-for-the-first-time

パースのアンザック・デーの退役軍人の行進に参加する中国系子孫たち(SBS)

中国系の市民が西オーストラリア州の州都であるパースで行われたアンザック・デーのイベントの一つの行進に、初めて、第二次大戦時に日本軍と戦かった中国系退役軍人(ベテラン)の子孫が参加したというのだ。この中国系の退役軍人を父に持つ女性はSBSに、父親の第二次大戦における貢献を誇らしく思う、父は日本軍に対する中国軍の前線に参加したと述べている。行進への中国系市民の参加を可能にしたのは中国系のコミュニティから陳情された中国系の上院議員の働きかけもあった。中国語学校the Association of Great Chinaなども「彼らは第二次大戦の勝利に貢献大であり戦勝側の一員として認知されるべき」と同調したコメントを出している。この学校は当然パースの中国総領事館とつながりを持っている。

日本軍と戦ったという父親Lie Yuの写真を持つMary (右)と彼女の母 Shu Qin Lu (左) (SBS)

少し歴史の知識があれば上記の主張に重大な嘘が含まれていることに気づくであろう。
1.中国が中華人民共和国として成立したのは1949年である。日本が敗戦したのは1945年なので日本軍は中国正規軍と戦っていない。第二次大戦中日本軍が戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍で、共産党ゲリラは逃げ回って正式な日本軍との戦闘作戦は行っていない。一方中華民国における国民党による政府発足は1925年。国民政府は1948年に改組され中華民国総統府となり現在まで中華民国政府(台湾)と称している。
記事中の動画には毛沢東の写真も出てくるので、ここでいう中国軍とは共産党軍のことであろう。
2.中国系オーストラリア人が豪軍に参加して、日本軍と戦ったとしても彼らはオーストラリア人として戦ったのであり、中国軍の前線で戦ったわけではない。SBSの記事はこのあたりを故意にぼかしている。

すでに中国系ベテランの子孫の行進参加は2015年シドニー、2016年メルボルンで行われている。オーストラリア人にとって最も影響力のある、子供から老人まで参加するイベントで、日本、豪州の分断を目的とするプロパガンダ活動を堂々と中国系市民が組織的に各市で行っていることを日本政府は看過すべきではない。これはオーストラリアで中国共産党が展開しているSilent Invasion(静かなる侵略)の日本貶め戦術の一つと見ることができる。

アンザック・デーのオーストラリアにおける影響力の大きさに中国共産党は着目し、アンザックに関係のない中国の関与を持ち出し、第二次大戦での日本を悪者化してそれをオーストラリア人に刷り込んでいる。オーストラリア国民は他国の歴史に疎いためこれを無毒化しなければ日本にとって大きなマイナスになるであろう。

日本のカウンターとして海上自衛隊のアンザック・デーでの行進(マーチ)への参加と第一次大戦での日豪の協力を強力に広報することを提案する。
(ダーウインで日豪合同の慰霊セレモニーの実績があるのでその延長。)

ガリポリに上陸したANZAC軍は、1914年11月に西オーストラリアからエジプトに向けて出発した。この輸送船団の護衛に、同盟国イギリスから支援を要請された日本海軍の巡洋艦「伊吹」が参加している。更に日本海軍は駆逐艦隊を地中海にも派遣した。
そして、最大時17隻の駆逐艦を送ってアフリカからヨーロッパへ連合軍兵士の輸送船団の護衛をし、ドイツ、オーストリア海軍のUボートと戦かった。
日本海軍の捨て身の護衛は大変な信頼を得て、日本軍の護衛無しでは出港しないという船長もいたほどであったという。一連の戦いで78名の方が亡くなり、マルタ島のバレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にある旧日本海軍戦没者墓地に埋葬されている。清掃の行き届いた白い慰霊塔には66人の方の名前が刻まれている。
一方、軍として参戦しなかった陸軍は迫撃砲16門と砲弾をイギリス軍に提供している。その一部がANZAC軍にも渡り、ガリポリで使われた。そしてこの迫撃砲の使用方法を指導するため、日本陸軍の義勇兵も派遣されたそうである。
当時のオーストラリアには兵器を製造できるだけの工業力がなく、多くを輸入に頼っていたからである。この迫撃砲は Japanese Trench Motor として、当時の写真と共にキャンベラの戦争博物館に展示されている。これらのことをほとんどのオーストラリア人は知らない。日本政府は広報活動を強化して中国のプロパガンダに対抗すべきだ。





5月にAJCN山岡鉄秀代表の記事2本が電子メディアに掲載されましたのでご紹介します。


1.「フィリピン慰安婦像撤去、中国「静かなる侵略」を阻止した意味」
IRONNA  2018年5月9日 
4月末、フィリピンの首都、マニラにある「慰安婦像」が撤去された。2017年12月に設置されて以降、日本政府は再三懸念を示していた。撤去後、ドゥテルテ大統領は「日本の償いは何年も前に始まった。侮辱するのはもうやめよう」と述べ、公共の場への設置に反対する考えを明らかにした。
 今回は北米に置かれた慰安婦像とは違い、大統領が行政を直接動かしたことや、日本の影響力が相対的に高かったことが撤去を可能にしたと言えるだろう。おそらく、一度設置された慰安婦像が撤去された初めてのケースであろう。その意味について考察した。――
https://ironna.jp/article/9632

2.「慰安婦像問題 なぜ日本は負け続けるのか」 
月刊Hanadaプラス 2018年5月29日

――なぜ、韓国のみならず、世界中に日本の慰安婦制度に関する碑や像が立ってしまうのか。大阪市が姉妹都市交流を解消したサンフランシスコ市の事例から、日本側が抱える根本的な問題に迫る――
https://hanada-plus.jp/posts/637





歴史の真実を直視する、それがすべての出発点

竹島はいかに奪われたか?


2018年1月22日、韓国政府は竹島の領有権問題に関する河野外相の発言を、不当な主張と発言の撤回を要求しました。

【ソウル聯合ニュース】韓国政府は22日、「日本政府が外相の外交演説を通じ、わが固有領土の独島に対し、再び不当な主張を繰り返したことを非常に遺憾に思う。直ちに撤回をすることを求める」とする外交部報道官の論評を発表した。 また、歴史的・地理的・国際法的に明白な韓国固有の領土に対する誤った主張をやめ、謙虚に歴史を直視する姿勢を示すべきだと強調した。

竹島(韓国名独島)の領有権問題は日韓最大の懸案事項です。日本人はこの問題についてどの程度知っているでしょうか。1952年突然李承晩ラインが引かれ、日本人漁民たちの身に何が起こったかを直視してください。
拿捕、収容所に入れられた日本人漁民がどのような苛烈な生活を強いられ、最後は蜂起したのか、ライター但馬オサムさんの了解を得て但馬さんの記事をCheersに転載しましたのでご紹介します。


2015年07月17日00:54 但馬オサム 

リメンバー7.17 李承晩ラインに殺された日本人たち

1959年(昭和34年)の7月17日――。つまり56年前の今日、何があったか即座に回答できる人はほとんどいないだろう。
韓国釜山で不当抑留されていた日本人漁民128人が非人道的な収容所での処遇に怒りを爆発させ、収容所を抜け出して抗議デモを行った7・17釜山決起の日なのである。
もっとも、僕とて、その事実を知ったのは、大宅壮一文庫で偶然見つけた複数の雑誌記事による。その一部を記しておく。

「釜山収容所の鬼『白相天』/爆発した抑留漁夫の怒り」(週刊読売59年8月2日号)
「生きて帰るために/釜山の日本漁船員」(週刊朝日59年8月2日号)
「『非人間』の記録/血と涙でつづる"釜山抑留"の体験」(サンデー毎日60年4月17日号)

白相天(ペク・サンチョン)とある。この男、当時西釜山警察から出向の形で収容所に派遣されていた警備刑事である。なぜ、収容所に刑事がいるのかわからないが、彼は所長以上の権限と権利をもつ、実質的な独裁者だった。後述するが、7.17決起はこの白という鬼畜男に対する漁民たちの命がけの反乱でもあったのだ。

1952年(昭和27年)1月18日、 大韓民国初代大統領・李承晩は、日本海上に勝手に軍事境界線を引き、島根県に属する竹島を強奪した。いわゆる李承晩ラインである。同年9月、日本がサンフランシスコ講和条約で主権回復する直前のどさくさを狙っての行為だった。
これによって奪われたのは、領土だけではない。このライン近郊の海域で先祖代々操業している日本漁民が、韓国の国境警備艇に次々と拿捕されているのである。

韓国の警備艇は夜間、無灯火で漁船に体当たりしてきたり、「魚は釣れますか」などと日本語で話しかけ漁民が無防備でいることを確認するや、いきなり乗り込んできて銃底で殴打し、船を乗っ取るのだという。漁民がいくら「李ラインを越えていない」「航海日誌や無電記録を見てくれ」と言っても鉄拳が返ってくるだけだ。一度、韓国の警備艇に狙われたら最後だ。底引き船は足が遅い上に、いざというときは網を切って逃げなければいけない。旧日本海軍の掃海艇を改造した韓国警備艇に狙われればひとたまりもなかった。

船上にあるものは、収穫した魚類はむろんのこと漁具や長靴にいたるまで、その場で押収され監視官の役得になる。中には漁民から奪った腕時計をいくつも腕にはめ悦に入ってる監視官もいたというから、その浅ましさはとても海の警察官と呼べるものではない。
そればかりか、韓国船はいきなり発砲してくることも珍しくなかった。銃撃を受け漁師がとっさに海に飛び込み逃げようとすると、その水面に向かって連射してくる。明らかに殺すことが目的だ。第一大邦丸の戸重次郎氏は後頭部を刺激され即死している(53年1月22日)。
韓国ではこの李ラインを「平和線」と呼んだが、平和とは名ばかりの「殺人線」である。

「平和線死守」のスローガンのもと、日本漁民の生命、財産が奪われた。

 拿捕され韓国に送られた漁民は名ばかりの裁判にかけられる。たいがいは有罪である。刑務所に入れられ、ここで服役ののち、帰国を前提として収容されるのが釜山外国人収容所だ。日本でいうところの入管の収容所に近いかもしれない。「外国人」とはあるが、収容されているのは日本人しかいないので、実質は「日本人収容所」といっていい。

刑務所暮らしに疲弊しきっていた漁民たちは誰もが、これで少しは人間らしい暮らしができると思ったという。しかし、その期待はもろくも打ち砕かれる。外国人収容所とは実質的な第二刑務所、いや環境の劣悪さにおいては刑務所よりもひどかった。
20畳ほどの板張りの施設に40名が押し込められる。一人半畳のスペースだ。汲み取りトイレと飲料水用の井戸は数メートルしか離れておらず、漁民は目をつぶってその糸虫が泳ぐ不衛生な水を飲んだという。雨が続くとトイレが氾濫し汚水が床下に沁み込み悪臭が漂った。食事は日に2回。砂利の混じった麦飯に紙のような沢庵2切れ。それにナイロン汁(ナイロンストッキングのように透きとっているところから、漁民がそう呼んだ)。これだけでは体が持たないから、漁民たちは売店へ行き市価より3割りも高いソーセージや野菜を買って自炊する。あるいは日本にいる家族たちが送ってくれた差し入れの缶詰を分け合う。入浴は年に数回(!)。夜具は軍払い下げの薄汚れた毛布2枚で、これはシラミや南京虫の温床だった。恐ろしいことに、昭和31年まで電気も通っておらず、看守は石油ランプの灯油代まで収容者からむしり取っていた。

「釜山外国人収容所」看板。当時はまだ漢字表記。

 収容所内で腸チフスが流行ったこともあった(55年7件)。病気を訴えても放置されることがほとんどだった。栄養失調が原因で亡くなった漁民は2名に及ぶ。仲間によって火葬にされた。その他、精神に異常をきたす者や帰国後も何等かの後遺症に悩む者も続出している。
日本にいる家族は、収容所から届く手紙の行間からおおよその状況を把握していたが、なす術もなかった。それどころか、一家の働き手と財産である船(家一軒分ほどの価値がある)を失い路頭に迷いかけた家族、酌婦に身を落とす新妻もいた。それでも愛する夫や父のため、仕送りだけは続けるしかなかった。現金もそうだが、収容所あての物資の中で特に喜ばれたのは、味の素とポマードだったという。これらはそのまま現金代りになったし、看守の袖の下に使えたのだ。
「看守なんか早く辞めてせめて交通巡査になりたい」
ある漁民は、看守からそんな愚痴を何度も聞かされている。獄卒は韓国では代表的な賤業のひとつだ。交通巡査になりたい、というのは、交通違反を見逃してやるということでいくらでも賄賂が取れるということらしい。すべてがコネと賄賂の社会なのだ。

56年5月、ジュネーブの国際赤十字から視察団が釜山収容所にやってきた。そのときばかりは、黄ばんだ麦飯の代りに白米のご飯が出され、理容師が主張し漁民が髭を剃られてさっぱりしている図を写真に撮らせたという。APなどの通信社が訪れたときも同様だった。滑稽なのは、李承晩の視察団を迎えたときのことだ。収容所前の道路は急ごしらえで舗装され、両脇に花壇が並んだ。収容者(漁民)はその日用意されたこざっぱりとした服を着て、笑顔でこの反日独裁者を迎えることを強要された。そしてその図は外電となって日本にも伝わった。「大韓民国は抑留者を人道的にあつかっている」と。
抑留漁民たちがそんな苦痛と屈辱に耐えてきたのも、一日でも早く家族のもとへ帰りたいという一念からだった。しかし、韓国政府は、李承晩は、そんな漁民の思いも家族の苦しみもすべて政治利用したのである。すでに日韓国交へ向けての外交交渉は始まっていた。韓国は抑留漁民を半ば人質にとって交渉の材料としたのである。日本側が交渉に強気の態度で臨むと、韓国側は報復として、漁民たちの帰国を先送りにするという策に出た。北朝鮮への帰還授業が始動すると(帰還船第一号は59年12月)、韓国はこれに反発。むろん、とばっちりを受けたのは釜山の日本漁民だった。

 食事する抑留漁民。白米が出るのはマスコミの取材が入るときだけ。

 59年6月、西釜山警察署から一人の男が釜山収容所に派遣される。冒頭に紹介した白相天である。
面白いことに56年の国際赤十字による報告書に書かれた、釜山収容所の所長の名が「白海鎮」(ペク・ヘチン)、同報告書の釜山中央刑務所(抑留漁民が収容所入りの前に刑期を過ごした)の所長は「白興沫」(ペク・フォン?)で、ともに白姓だ。ただの偶然か、それとも刑務官系を白一族が利権としているのか、それとも階級的職業(白丁)なのであろうか、もし白真勲センセイにお会いすることがあれば、ぜひお聞きしてみたいものである。
白相天は残忍かつ凶暴なる男で、彼に目を付けられ理不尽なリンチにあった収容者はあとを絶たなかった。最初の餌食になったのは福岡第二蛭子丸の川村広人氏で、川村氏は全身打撲の重傷で生死をさまよい、帰国後もしばしば、その時の恐怖でうなされる夜が続いたという。現在でいうところのPTSD(心的外傷後ストレス障害)といったところだろう。
白とその子分の刑事どもは「共産主義分子の不穏文書がまぎれているのを監理する」という名目で、漁師たちが命の綱としておる家族からの小包を勝手に開け中身(缶詰の他、当時韓国では貴重な薬品など)を着服した。漁師に小包を渡すときも「郵便局までタクシーで取りに行った」といって手数料までまきあげる鬼畜ぶり。まさに獄卒という言葉がぴったりくる地獄の番犬である。
彼が赴任してから、日本の家族へあてた手紙もとんと届かなくなった。なんと白一味は封筒から切手を剥ぎ取り、小遣い銭にしていたのだ。売店で抜き取られた小包の中身と思われる日本製の缶詰と糊の剥がれた切手が売られているのを見て、漁師たちは声を失った。それでも彼らは命を繋ぐため、愛する家族へ近況を伝えるため、それらを再び買うしかなかったのである。

劣悪な環境の下、重度の皮膚病に冒された漁師

そして、その時がきた。7月17日夜半である。白の横暴に耐えかねた収容者たちがついに蜂起したのだ。いつものように些細なことで白の機嫌を損ねた収容者が所長室に連れ込まれ殴る蹴るの暴行を受けていた。漏れ聞こえてくる仲間の悲鳴に、漁師たちの怒りが沸点に達した。もとより、舟板一枚下は地獄を生きて来た海の男たち、乗る船は違えど仲間意識は強い。一同はまず看守を払い腰で床にたたきつけ、所長室のドアを蹴散らすとリンチにあっていた仲間を救出、「白、出てこい」と怒号を挙げる。だが、当の白は既に窓から逃亡を図っていた。無抵抗なものにはとことん強く出るが、相手が怒ると尻尾を撒く、ある意味、韓国人の気質そのままの男だったのである。
拉致が明かぬと判断した収容者128人全員(当時)が収容所のバリケードを突破、釜山市長と警察署長に直接抗議に向かうため隊列を組んだ。蜂起とはいっても実質、武器を持たぬ平和的なデモだった。にわかに雷音を伴って降り出した大粒の雨がデモ隊の痩せた頬を叩いた。彼らを待っていたのは装甲車と消防車の放水、そして棍棒や洗濯棒を手にした青年団たちだった。悪鬼と化した高麗棒子どもの襲撃に、無抵抗なままデモ隊の約半数67人が重軽傷を負う形でデモは1時間たらずで鎮圧される。
しかし、蜂起自体は決し無駄ではなかった。その後、白は解雇され以後、荷抜けも無くなり、食事面の待遇も少しだけ改善された。
大人しい、草食系、といわれる日本人。しかし、やるときはやるのである! 
こんな非力な漁師さんたちだって理不尽な暴力にはNOを突きつけ立ち上がる。一方、軍艦島で奴隷労働させられたという朝鮮人炭坑夫が待遇改善を求めて決起したという話も残っていない。不思議なものだ。(注1)
われわれ日本人は2月22日の「竹島の日」とともに、7月17日を「717釜山闘争」として後世に語りつぐべきである。(了)


収容所の別棟には、日本人妻とその子供ら600人が収容されていた。
韓国人に嫁ぎ、朝鮮動乱で夫を失い帰国を希望する女性とその子らである。
この子らが無事日本に帰国できたかはさだかではない。
(アサヒグラフ1954年12月9日号)

注1:昨年「軍艦島」という韓国映画が公開されたが、荒唐無稽、史実を極端に歪曲(わいきょく)したエンターテインメント映画と評され興行的にも失敗した。実際は映画のラストシーンのような暴動は起きなかった。監督は釜山の収容所で蜂起した日本人漁民たちの物語(事実)を軍艦島で過酷な炭鉱労働に従事した韓国人たちに投影したかったのかもしれない。