3.1ムン・ジェイン大統領の発言と日韓併合の真実


― キチっと歴史に向き合うことの大切さ ー
                            AJCN事務局長 江川純世


今、日韓の関係は過去最悪と言われている。韓国文化体育観光部により2月1日から8日に行われた19歳以上1,004人を対象とする世論調査によれば、「日本に対し好感が持てない」は、69.4%、一方2月16,17日に18歳以上1,000人を対象にした日本のFNN世論調査では、「韓国を信頼できない」と答えた人は77.2%に達している。韓国人の訪日数は年750万人以上、若い韓国人の日本企業への就職希望者が殺到している現状を見ると、倒錯している感も否めないが、日本にとって事実に則した正しい歴史を積み上げ、国内外にその主張を発信していくことがますます大事になっている。そんな中、で韓国のムン・ジェイン大統領が日本を刺激する発言をした。

1.3月1日の記念式典でのムン・ジェイン大統領の反日発言
ソウル光化門広場で3月1日に開催された100周年3.1節記念式 で、ムン・ジェイン大統領は、次のように語った。 
2019年3月1日、「3.1独立運動」100周年記念式典で演説する文在寅大統領。政府広報テレビよりキャプチャ。

「当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。約7,500人の朝鮮人が殺害され、約1万人が負傷しました。逮捕・拘禁された人は実に4万人ほどに達しました。最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。しかし、それとは対照的に朝鮮人の攻撃で死亡した日本の民間人はただの一人もいませんでした。」

 前日にベトナムで開催され、物別れに終わった米朝会談の結果を聞き、演説の内容の日本批判色を抑えたとも言われているが、日本政府はムン・ジェイン大統領が3.1運動当時の死傷者数に言及したことについて、「(日韓間の)見解が一致していないことを公的な場所で発言するのは不適切である」という立場を外交ルートで伝えたとのことである。この日本政府の対応は、韓国政府の反日プロパガンダともいえるフェイクの数字が真実として定着することを防ぐための反応と考えられるが、いわゆる「7,500人殺害説」というのは、「学説の1つ」と呼ぶことすらできない全くの虚偽であるとはっきり抗議すべきであった。

「約7,500人」という数字は、3.1運動後、1914年4月に上海で設立された「大韓民国臨時政府」の2代目大統領パク・ウンスク(朴殷植)が海外で新聞記事や伝聞をもとに書いた小説『朝鮮独立運動之血史』の中に記載された根拠ゼロの数字である。下記に示すように、パク・ウンスクの数字は、韓国公式の国史編纂委員会が発表した数字よりも桁違いに多い。文在寅大統領はその根拠の薄い数字をまことしやかに発信したのだ。

出典 参加者 死者 負傷者
朴殷植「血史」 203万名 7,509名 15,961名
朝鮮総督府の記録 106万名 553名 1,409名
2019年2月20日韓国国史編纂委員会発表 103万73名 最大934名
憲兵・警官側被害(総督府の記録) 8名 158名

その後4月に京畿道で発生した争乱について、朝鮮総督府のまとめた朝鮮騒擾経過概要には以下のように書かれている。

約2千名の暴民は水原郡雨汀面花樹警察官駐在所を襲い、これを包囲暴行したるを以て 駐在巡査は発砲応戦したるも衆寡敵せず弾丸尽きついに惨殺せられその屍は凌辱せられたり。状況右のごとく殆ど内乱の如き状態にして為に同地方内地人の如きは危険を冒し婦女子を一時的に避難せしむる等人心恟恟、形勢混沌たりし。

このことから、運動が平和的なものではなく、極めて暴力的な側面をもっていたことがわかる。


文在寅大統領が引用したと思われる『朝鮮独立運動之血史』がいかに現実と乖離したホラー小説であるかは、次の一節を読めばわかる。
女子高等普通学校(当時の女子中等学校の名称)の廬永烈は、裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて廬永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。…が質問して、「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて、「独立が達成できなければたとえ死んでもやめない」と言った。 …数日間も食事を与えないで、三日目にふたたび拷問を加えた。 …やむをえず、衣服を抛(ほう)りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された。…… (231~2頁、212頁)」

刀で四肢を断ち落とされた人間が三日間放置されて生きていられるのだろうか?慰安婦問題と同じで、エロ・グロ・ナンセンスを含めた創作であることがわかる。


2.正統性をめぐる戦い
今まで朝鮮半島では北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)と2つの政府が正当な政府であると主張し、互いに朝鮮半島全域の領有権を主張し、相手を不法に朝鮮半島の一部を占拠している勢力とみなしてきた。極左共産主義の文在寅政権は南北融和・統合の方向に大きくかじを切ったが、ムン・ジェイン(文在寅)大統領が昨年9月に平壌を訪問した時、北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長と合意した「三・一節100周年南北共同行事」開催の約束が破られ北朝鮮は記念行事に参加してくれなかった。それだけではなく北朝鮮は2月28日にその対外宣伝メディア「我が民族同士」で「三・一人民蜂起は『請願』と外勢依存に染まった上層人物(ブルジョア)たちの間違った指導により、『独立』を得ようと愚かな試みをし、その光を見ることなしに苦い失敗の教訓だけを残した」と主張し、3.1運動の意義そのものを見下す発言をした。

なぜ両政府は独立に関しこだわるのか。それは朝鮮半島統一に向けて両政府の成り立ちが大きくかかわるからである。北朝鮮はソ連に後押しされたキム・イルソン(金日成)が抗日パルチザン活動を行って勝利し北朝鮮を建国(建国は1948年9月9日)、祖先は朝鮮民族の聖地である白頭山の出身であり、すなわち自分たちとその子孫は神の存在に他ならないと主張している。

一方、韓国の「大韓民国憲法」の前文には「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は己未(1914年の)三一運動で大韓民国を建立し(中略)檀紀4281年7月12日に憲法を制定する」とある。 実際には韓国=大韓民国の独立の宣言は1948年8月15日に初代大統領の李承晩が行っている(光復節)ので、韓国が自国の建立を自分勝手に34年も遡って設定していることが、この前文からわかる。北朝鮮の主張に抗するのに「日本の敗戦で棚ぼたで転がり込んできた自国の独立」では具合が悪く、正統性を訴えるのは苦しいので下のように歴史を書き換えようと必死になっている。

 朝鮮(清の属国)→大韓帝国→大日本帝国(日韓併合)→アメリカ軍政→大韓民国

 という本来の歴史を

 朝鮮→大韓帝国→日本植民地
            臨時政府→大韓民国 
    という風に捏造する。

日本に歴史を直視しろと言っている文在寅大統領自身が歴史を捻じ曲げているのである。


3.そもそも3.1運動とは?
それは、1919年3月1日、日本統治時代の朝鮮で起こった、反日暴動のことである。この運動自体の評価は諸説いろいろとあり。韓国では肯定的に評価されている。
第一次世界大戦末期の1918年1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより"十四か条の平和原則"が発表された。これを受け、民族自決の意識を高めた李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区のYMCA会館に集まり、「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。
3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞の泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした。この宣言は徹底した理想主義によって貫かれていた。特徴的なのはその戦闘性の希薄さで、日本に対する独立宣言でありながら、その日本に対し真の友好関係樹立を呼びかけている。これは三原則の一つ非暴力理念を反映した結果といえる。
独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及ぶと、朝鮮半島全体に広がっていった。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持にあたった。

運動の形態には、デモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。デモに参加した人数は多いものの運動は約2か月で収束し、処罰された人数の少なさや量刑の軽さ、何の成果もあげられなかったことを客観的に見ると「建国」とはほど遠いのが実情である。総督府は3.1運動で掲げられた要求を受け、総督武官制、軍隊統率権の廃止、地方制度の改正、結社の制限廃止などの法制度改革を一挙に進めていった。こうして、3.1運動を招いた反省から、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなった。

3.1運動後、臨時政府は上海、重慶と場所を移して光復軍を創設した。(1919年4月11日、上海にて大韓民国臨時政府樹立、初代大統領李承晩)しかしながら臨時政府はどの国からも承認されず、構成員同士の反目もあって、組織的な対日活動をしないまま日本の敗戦を迎えた。1919年に東京での独立宣言を起草した李光洙(イ・グァンス)はその後、『創氏改名運動』の先頭に立ち、三・一運動の発起人の一人、朴煕道(パク・ヒド)は『朝鮮語教育廃止運動』をリードしたことは皮肉なことである。1936年のアンケートでは、すぐに独立を求める人はほとんどいなかったとのことである。


4.日韓併合時に日本は何をしたのか?
韓国政府は1910年8月29日から35年間続いた日韓併合時代を暗黒時代と呼び、日本は「七奪」を行ったと主張している。「七奪」とは日本が韓国から「主権、国王、国語、人命、姓名、土地、資源」を奪ったというものである。ここでは詳細説明は避けるが日本は朝鮮を日本国の一部として膨大な投資を行い、国内本土と同様またはそれ以上の扱いをするよう努力したことについて、後にいくつかのジャンルで述べる。実際には大韓帝国の依頼により、朝鮮を併合した。背景にはロシアの南下政策があり、安全保障のために、日本国内での反対も多くあったが朝鮮を併合し、国際社会で認められた。アメリカ政府は「むしろ米国のためにこれを歓迎す」とし、イギリス、ロシア、ドイツ、フランス各国政府もこれを了承した。日本は西洋諸国の植民地政策とは全く異なる方針で総督府のもと統治を行った。

1) 日韓併合の真実
それではいくつかのジャンルについて、併合時代の光の部分に焦点を当て「七奪」が正しいかを検証してみよう。

a) 主権
もともと朝鮮は長きにわたり中国の属国であった。日清戦争における日本の勝利の結果、1895年4月17日の下関条約によって朝鮮は独立できた。その後大韓帝国が設立されたが、自己近代化ができず、日本に併合を依頼、日本の一部となった。もし日本との併合がなかった場合は、当時最強の陸軍国であったロシアの南下政策によりロシアに支配されたであろうというのが一般的な見方である。

b) 創氏改名
李氏朝鮮時代から男女の名字は変わらず日本の戸籍制度に合わなかった。古い制度では女性は低い身分とみなされ、女性だけが別姓を強いられ、差別の対象となっていた。日本政府は父系の血縁を重視するこの「姓」とは別に「氏」を新たに設け、欧米や日本と同様に夫婦でファミリーネームを統一するよう定めた。創氏の受付は1940年2月11日から8月10日まで行われ、期間中に届けをしなかった者は自動的にそれまでの家長の姓が氏となった。(「法定創氏」)一方新しい氏を届ける「設定創氏」があった。最終的には設定創氏が約8割、法定創氏が約2割であった。ちなみに改名は任意であり、期限も設けられなかった。このように決して日本名を強制したわけではない。

c) 国王
東アジアにおける王とは中華皇帝が与える位の一つである。中国の属国のトップという位置づけ。日本だけが聖徳太子の考案で天子を天皇に変え天皇を使い続けた。朝鮮国王を貶めたと韓国は言うが、大韓帝国の皇太子ウン(垠)は明治40(1907)年、11歳にして日本に留学し、皇族の梨本宮方子(なしもとのみや・まさこ)妃は朝鮮王朝最後の皇太子妃としてこのウン皇太子に嫁いだ。その後方子妃が韓国障害児の母と呼ばれるようになったことは有名な話である。

 併合後も、李王家は皇族の一員として高い地位を与えられた。敗戦時、総理大臣の年俸が1万円だった時に、李王家の皇族費は120万円と皇室に次ぐ巨費である。方子妃の生家梨本宮家などはわずか3万8,000円に過ぎない。さらに本国朝鮮に150万坪を越す土地や4,000万円以上の預金を所有していた。李承晩が李王家の子孫を排除したことを考えれば、誰が李王家を大事にしたかはあきらかであろう。

d) 教育制度を整えた
  • 小学校の数 約40校→4,271校 (35年間、100校/年設置)
  • 師範学校を作り教師を養成。教育制度の永続を目指した。
  • 大阪帝大(現阪大)よりも早く、ソウルに京城帝大(ソウル大学の前身)を設立。
  • ハングル文字を普及 大韓帝国では公文書は全て漢文(中国語)であった。大韓帝国では15世紀にハングル文字が作られたが支配階級の両班は使用せず、公教育では儒学と漢文が教えられハングルは教えられていなかった。日本政府がハングルを発掘してハングル文字を統一し、朝鮮語奨励政策で普及させた。大衆の教化のため「朝鮮語ラジオ放送」も実施した。日本語の普及活動も推進したが、戦争末期ですら約8割の朝鮮人は日本語を理解できなかった。この数字は「日本語強制」が事実でなかった証左であり、朝鮮語を奪ってなどいなかったことも明らかである。
これらの教育政策の推進により35年間で文盲率は90%から40%に改善、識字率は10%から60%に上がった。

e) インフラの整備
  • 6億本の植樹 朝鮮ははげ山だらけであったが、洪水の防止や再生可能な森林資源確保のために膨大な植林を行った。それまでは焼き畑農法、オンドル用燃料のため、樹木伐採が進んでいた。
  • 護岸工事、ダム工事で治水整備
  • 東洋初の旋回式橋梁(鴨緑江橋)を1Kmに渡りかけた。
  • 小作農困窮を救うための農地改革を実施、土地の開墾で耕地面積、農業生産量は2倍に
  • 半島のいたる所に鉄道網を敷設
  • 発電所を作り送電網を巡らせ、各地に変電所を設け村々に電気を通した。
その結果人口増加 約1,300万人→2,550万人を達成。平均寿命は24歳→42歳(1945年)まで延びた。


2) 朝鮮半島に残された日本の膨大な遺産
GHQの試算では、北朝鮮に残した日本政府と民間の試算は462億2,000万円、これは今の物価で8兆7,800億円に相当する。(産経新聞2002年9月13日付)この資産は日朝平壌宣言(2002年9月17日)で日本は請求権を放棄した。外務省が把握している韓国を含めて朝鮮半島における併合時代に残した資産は702億5,600億円となっており、現在の物価では13兆3,486 億円に上る。(1945年8月15日現在の朝鮮在外財産評価額)

韓国とは1965年6月22日、日韓基本条約を締結、日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄するとともに当時の韓国国家予算の2年分以上の資金提供(下記)することで、国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。
  • 3億ドル相当の生産物及び役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)
  • 2億ドル 円有償金(1965年)
  • 3億ドル以上 民間借款(1965年)
計約11億ドルにものぼるものであった。なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。この資金を使って韓国は漢江の奇跡と呼ばれる経済発展を実現するが、日本から一括して受け取った出稼ぎ労働者や元慰安婦の未払い賃金を払わなかったため、今日に至るまで問題を残した。

なお、米軍は戦後の日本統治の手法に日本の朝鮮半島統治を参考にしたと言われている。日本は清と戦って朝鮮を独立させ、併合を余儀なくされると莫大な投資をして近代化させた。日本はそのことを強調したことはないが、韓国は歴史を直視し、被害を誇張して恨みつらみを糧にして生きることをいい加減にやめた方がよいだろう。このまま北朝鮮に吸収されればまた新たな苦難の歴史が始まるだけだが。